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福岡地方裁判所小倉支部 平成元年(ワ)877号 判決

原告

松木裕一

松木和男

松木早苗

右原告ら訴訟代理人弁護士

服部弘昭

谷川宮太郎

石井将

市川俊司

被告

学校法人福岡大学

右代表者理事

安川寛

右訴訟代理人弁護士

鶴田哲朗

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告松木裕一(以下「原告裕一」という。)に対し、金四四〇一万一六一〇円及び右内金四一〇一万一六一〇円に対する昭和五九年九月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、原告松木和男(以下「原告和男」という。)、原告松木早苗(以下「原告早苗」という。)に対し、金五五〇万円及び右内金五〇〇万円に対する昭和五九年九月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  第一、二項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

被告は、福岡市中央区六本松一丁目一二番一号所在の福岡大学附属大濠高等学校(以下「大濠高校」という。)を設置経営する学校法人である。

原告裕一は、後記本件事故当時、大濠高校二年生として就学していたものであり、原告和男は原告裕一の父親、原告早苗は原告裕一の母親で、本件事故当時、いずれも原告裕一の親権者であったものである。

2  本件事故の発生

原告裕一は、昭和五九年九月一六日午前九時三〇分頃、大濠高校内の運動場において、同校で行われた体育祭の二年生の色別対抗の棒倒し競技(以下「本件棒倒し」という。)に参加し、赤組の守備選手として守備陣の先頭に立っていたところ、競技開始直後、相手方黄色組の選手の一人によって腹部を蹴られ、その場に仰向きに転倒したが、これを知るものは全くなく、競技は中断されず、そのために、赤組及び黄組の複数の生徒によって、右競技の終了するまでの間、更に腹部を数回踏み付けられて、後記傷害を負った(以下「本件事故」という。)。

3  被告の責任

(一) 大濠高校教師の安全保持義務違反ないし過失(注意義務違反)

原告裕一は、大濠高校に入学し、同校の教師の指導のもとで教育を受けているのであるから、被告は、同校を設置管理経営するものとして、在学契約に伴い、教育基本法、学校教育法、私立学校法その他の法令に基づき原告裕一の安全を保持する義務(以下「安全保持義務」という。)を負っていたにも拘わらず、以下の安全保持義務違反ないし過失(注意義務違反)により、原告裕一に傷害を負わせた。

(1) 校内学校行事である体育祭は、校外で行われる行事と異なり、生徒が日頃慣れ親しんだ場所で行われるものであるが、日常的な定まった教育活動と異なり一時的要素の強いものであり、生徒の危険に対する対応能力が十分に備わっていない点は校外学校行事と異ならず、どのような危険が伴うかは予測し難い側面があり、担当教師には、十分な計画策定、適切な指示・注意、事故が発生した場合の対応策等危険を防止し、生徒の安全を図るための措置を講じるべき高度の注意義務が課されている。

(2) 特に、本件棒倒しは、二ブロック合計約一六〇名の男子生徒が、それぞれ一本の棒を奪い合うものであり、騎馬戦競技と並んで学校教育活動としての体育祭の競技としては著しく危険性が高いマスゲームである。従って、本件棒倒しは、その性質上、生徒同士の衝突による転倒などの事故が当然に予想される競技であるから、更に十分な前記安全保持義務が担当教師に課せられていた。

(3) まず、担当教師は、本件棒倒しにつき、事前に競技参加者に対し、競技のやり方やルール等についての適切な指示・注意を怠っていた。特に、担当教師は、攻撃及び守備の方法について、生徒の身体の安全という観点からの具体的な指導(十分な安全指導)を何ら行っていなかった。

(4) 次に、担当教師は、本件棒倒しのような競技を行わせる場合には、監督の教師の数・配置などに十分に注意を尽くすか、或は、十分な監督・監視が行い得る適正な人数に競技参加人数を策定すべきであった。ところが、担当教師は、本件棒倒しにおいては、参加生徒約一八〇名に対して、審判長一名のほか、各「棒」の後方に五名ずつ、判定のための教師を配置したのみであった。

(5) 更に、担当教師は、事故が発生した場合に、これを直ちに発見し、場合によっては競技を中止させるなど、事故防止のための監督・監視の体制を講じるべきであった。ところが、担当教師は、審判員を配置したのみで、原告裕一が転倒した場所付近において事故防止のための監督・監視をする教師等を全く配置しておらず、また、競技中の監督についても、勝敗の判定のみに注意を向け、事故防止及び事故が発生した場合の対策を何ら取らなかった。

(二) 債務不履行

被告は、被告の履行補助者である大濠高校の校長、及び体育祭、棒倒し競技の責任者である担当教師らにおいて、在学契約に伴う前記(一)の安全保持義務を怠ったことにより、原告裕一を負傷させ、損害を与えたものであるから、原告裕一に対し、債務不履行責任を免れない。

(三) 不法行為責任(民法七一五条)

被告は、大濠高校の担当教師らの使用者であるところ、右教師らが被告の行う教育活動の一つである体育祭を指導した際、前記(一)の安全保持義務に違反した過失により、本件事故を発生させ、原告らに損害を与えたのであるから、民法七一五条により、右損害を賠償する責任がある。

4  損害

(一) 本件傷害

原告裕一は、本件事故により、脾臓破裂(脾臓摘出)、左側腎臓外傷破裂(左腎萎縮)、外傷性膵炎、胃一二指腸潰瘍、血小板増多症、肝機能障害、急性化膿性歯髄炎、慢性化膿歯髄炎等の傷害(以下「本件傷害」という。)を負った。

(二) 原告裕一の損害

(1) 入通院関係

原告裕一は、本件傷害の治療のため、昭和五九年九月一六日から同年一一月二九日までと、同年一二月二四日から昭和六〇年一月八日までの期間安藤外科に、右同日から同年二月一〇日までの期間福岡大学病院に入院し、同月一二日から昭和六二年三月四日までの期間森園医院に、昭和六〇年八月一三日から昭和六一年八月一九日までの期間福岡大学病院に、昭和六〇年二月一三日から同年四月二六日までの期間西原歯科医院に通院した。

① 入通院の慰謝料

原告裕一は、前記のとおり入通院を繰り返し、今後も定期検査を継続しなければならず、その肉体的精神的苦痛は筆舌に尽くし難いものがあり、その慰謝料は少なくとも三八三万二五〇〇円が相当である。

② 入通院雑費及び付添費

入通院雑費として一二万四〇〇〇円、近親者の入院付添費として四三万四〇〇〇円、合計五五万八〇〇〇円が相当である。

(2) 後遺症関係

原告裕一は、本件事故により腹部臓器の機能に障害を残し、軽易な労務以外の労務に服することができなくなった。

① 後遺症の慰謝料 八三六万円

② 逸失利益

前記後遺症により原告裕一が被った労働能力の喪失率は五六パーセントである。そして、全年齢平均給与額の月額を三二万四二〇〇円、一五歳の未成年者のライプニッツ係数を12.972(15.695―2.723)として計算すると、原告裕一の逸失利益は二八二六万一一一〇円となる。

計算式 32万4200円×12×0.56×12.972=2826万1110円

(3) 弁護士費用 三〇〇万円

原告裕一は、本件訴訟を弁護士に委任し、弁護士費用として三〇〇万円の支払を約した。

(三) 原告和男、原告早苗の損害

(1) 慰謝料 五〇〇万円

原告和男、原告早苗は、原告裕一の両親であるところ、本件事故により原告裕一が重大な傷害を負う事態となり、両親としての精神的苦痛は、子の死にも比すべきものであるから、慰謝料は少なくとも五〇〇万円が相当である。

(2) 弁護士費用 五〇万円

原告和男、原告早苗は、本件訴訟を弁護士に委任し、弁護士費用として五〇万円の支払を約した。

5  よって、原告らは、被告に対し、債務不履行ないし不法行為(民法七一五条)に基づく損害賠償請求として、原告裕一につき四四〇一万一六一〇円(前記4(二)の損害の合計金額)及び右内金四一〇一万一六一〇円に対する昭和五九年九月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、原告和男、原告早苗につき五五〇万円(前記4(三)の損害の合計金額)及び右内金五〇〇万円に対する右同日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実のうち、原告裕一が、昭和五九年九月一六日大濠高校で行われた体育祭に参加し、本件棒倒しに赤組の一員として参加したことは認めるが、その余の事実は不知。

なお、本件棒倒しの競技終了時間は、同日午前一〇時三七分である。

3  同3、4の事実及び主張は否認ないし争う。

三  被告の主張(請求原因3被告の責任に対するもの)

1  本件棒倒し実施までの経緯

(一) 大濠高校では、昭和五九年度の体育祭の種目は生徒会が立案し、体育科職員で検討、修正し、生徒会の話し合いを経て原案を作成し、これを職員会議にかけて承認を得て終了決定とした。そして、格闘競技(一年生綱引、二年生棒倒し、三年生騎馬戦)は、各学年主任に種目責任者を依頼した。そこで、本件棒倒しの職員責任者は近藤達男・第二学年主任、審判団責任者は大野和夫・体育科主任と決定され、このほか、職員の担当者として、南北それぞれに主審一名、主審補佐一名、副審一〇名が付いて、合計二六名の職員によって競技を管理運営することになった。

(二) 体育祭の各種目の出場選手は、六月のロングホームルームで、クラス担任教諭の指導の下に、クラスの委員長及び体育委員が司会をして、生徒の希望或は推薦により決定された。そして、各クラスの選手表は、担任教諭の捺印を貰ったうえで、クラスの体育委員から生徒会に提出され、右選手表をもとに、生徒会が全校の選手表を作成し、これを職員会議に提出して承認を得ることとされていた。

(三) 大濠高校の昭和五九年度の二年生は合計二〇組あったが、五組ずつ青、赤、黄、白の四ブロックに分かれ、原告裕一が在籍した一九組は赤ブロックに所属した。本件棒倒しは、各ブロック七八人、合計三一二人が出場選手となるもので、二年一九組では一六人の選手と二名の補欠が決定されたが、この中に原告裕一は含まれていなかった。

(四) 生徒が選手表提出後、出場選手を変更する場合は、必ず本人が担任教諭に申し出、担任の許可を得て、クラスの体育委員が生徒会に届けるものとされていた。また、担任教諭は、体育祭の当日の教室朝礼で、選手の体調と出場選手の変更の有無を確認し、もし変更があれば、生徒会指導主任(教師)に届け、生徒会指導主任がこれを生徒会に届け出ることになっていた。そして、各担当教諭は、昭和五九年九月一二日に、各クラスにおいて、既に決定している各種目の選手を再確認した。

(五) 生徒会は、体育科の教師の助言を受けながら、各競技の内容、規則、選手の位置等の説明書を作成し、九月の職員会議で承認を得ることとされていた。そして、生徒会は、各クラスの体育委員を集めて競技要領を説明し、体育委員が各クラスで選手に説明した。

(六) 本件棒倒しの競技要領は、次のとおりである。

(1) 服装 パンツ、裸

(2) 招集 各ブロック二列、計八列。各ブロック人数を正確に把握。

(3) 進行 開始前に必ず両チームの人数を合わせておく。

ピストルの合図(一回目開始、二回目終了)終了後、元の位置に整列した後結果発表、次の対戦へ。

(4) 対戦は、①黄対赤、②青対白、③三位決定戦、④決勝戦の順に計四回行われる(トーナメント方式)。

(5) すべての対戦が終了するまで選手は所定の位置で待機。退場は終了した時点で近いほうの退場門から。

(6) 得点 一位一〇〇点、二位六〇点、三位三〇点、四位二〇点。

(7) 殴る、蹴るなどの暴力行為をした者は即退場。

所属ブロックより退場者一名につき一〇点の減点。

(七) 全日予行演習

大濠高校では、昭和五九年九月一三日、体育祭の全日予行演習を実施し、本件棒倒しの予行演習を次のとおり行った。

(1) 招集係の教師及び生徒が出場選手の名前を読み上げて、四ブロック各七八名の人数確認と整列をさせる。

(2) 進行係の生徒が、運動場の北側に白、赤、南側に青、黄の選手を引率して定位置につける。

(3) 総務責任者(生徒)が、本マイクを通し、選手及び全校生徒に向けて、競技上の注意と罰則を説明し、審判団責任者大野教諭がこれを補足する。

(4) 主審黒木教諭が中心となり、一ブロック七八名の選手を守備(棒を守る者)半数、攻撃(相手の棒を倒す者)半数に分け、攻撃と守備の仕方を指導する。

(5) その後、開始のピストルで、攻撃の練習として中央ラインまで走らせて止め、選手を元の位置に戻して整列させる。

(6) ここで、黒木教諭が、再度ルールの注意をし、選手を退場させる。

2  審判団・職員の配置

(一) 大濠高校では、体育主任が中心となって、本件棒倒しの実施にあたり、審判の数や場所、審判の基準等につき打ち合わせを行い、万一の事故発生防止のため、万全の態勢を整えることとした。大濠高校では、例年、体育祭で棒倒し競技を実施しており、本件事故までは無事故で安全に行われていたものである。本件事故の際も、前記のとおり合計二六名の責任者・審判の教諭が関与し、暴力行為の有無も含めて競技の進行を見守ることになっていた。そうすると、実際の競技の際は、一本の棒につき、選手が攻撃、守備各約四〇名に対し、審判の教諭が少なくとも一二名で監督、監視をすることとなるものであり、原告らの主張するような不十分なものではなかった。

(二) 体育祭当日、招集係教諭は、同係生徒とともに、入場門付近で選手を招集し、入場隊形を作り、人数を確認する。審判団の教師は、試合の始まる前に全員本部前に集合、大野教諭から審判の仕方につき説明を受けた後、南北に分かれ、陣を作った選手の周囲の見易い場所で審判に当たることとなっていた。

3  本件棒倒しの状況

(一) 体育祭当日の職員朝礼の際、各担任教諭に対し、出場選手変更の場合は、必ず担任に申し出ることを担任から生徒に伝えるよう改めてお願いがなされ、担任から生徒にその旨伝えている。ところが、原告裕一は、本来、本件棒倒しの正規の選手でも補欠の選手でもなく、選手であった松岡博文に代わって右競技に出場したが、右交替の件は、クラス担任の松岡繁雄教諭に届けられていなかった。

(二) 本件棒倒しは、午前の部に予定された八種目のうちの六番目であったが、予定通り実施され、第一回の黄対赤の対戦の最中も、その直後も、倒れ込んだ生徒は見受けられておらず、どのような状況で原告裕一が受傷したのかは明らかではない。第二回戦の青対白、三位決定戦の赤対白、決勝戦の黄対青の各対戦も滞りなく進行し、競技が終了したのは午前一〇時三七分であった。

4  本件事故後の状況

(一) 大野教諭は、肩を組まれて歩いている生徒を見たが、本件のような重大な事故が起こったとは全く考えておらず、昼休みに養護担当の柴田教諭に尋ねた際も、異常なしとの報告を受けた。また、担任の松岡教諭も、本件棒倒しに立ち会っていたが、倒れ込んだ生徒もなく、事故があったことには全く気付かず、あとで放送で呼び出されて初めて、原告裕一の受傷を知ったものである。

なお、本件棒倒し終了後、当日来賓として来校していた松本医師(小児科医)が原告裕一を診察し、同医師の指示により安藤外科病院に搬送され治療を受けることになった。原告裕一は、入院当初はさほど心配ないということであったが、夜に入って容体が悪化し、深夜になって開腹手術が実施されることになった。大野教諭も原告早苗の連絡で病院に駆けつけ、近藤学年主任、松岡教諭も家族に付き添って病院で夜を明かした。

(二) 大野教諭は、原告裕一に対し、受傷したときのいわゆる加害者について何度も尋ねたが、「横からドーンと当たったので全然判らない」との返事であった。結局、いわゆる加害者は、現在に至るも不明である。

5  まとめ

(一) 本件棒倒しは、事前の計画、準備の段階から、生徒に対する指示、注意、選手の管理、競技中の監督まで、十分な措置を講じて実施されたものであり、原告らが主張するような杜撰なやり方に起因して、本件事故が発生したものではない。

(二) 棒倒し競技は、周知のとおり、長年多くの体育祭の種目として実施され親しまれているものであり、殊更危険性が高い競技というわけではない。大濠高校においても、毎年実施されているが、本件のような事故が発生したことはない。また、棒倒し競技は、修猷館高校、福岡高校、筑紫丘高校、小倉高校、戸畑高校、明善高校、伝習館高校、朝倉高校等、県下の多くの高校で運動会競技として現在も行われている。

本件事故がいかなる態様で発生したのかは明らかではないが、いずれにせよ、突発的な事故であり、これにより受傷した原告裕一にとって誠に不幸な事故であったが、不可抗力によるものといわざるを得ない。原告らの本訴請求は、いわゆる結果責任を追求しようとするものであって失当である。

四  被告の主張に対する原告の認否ないし反論

1  本件棒倒し実施までの経緯について

(一) 大濠高校では、体育祭の種目の立案、実際の管理運営は、生徒会・体育祭実行委員会が行っており、生徒の自主性にその大半を委ねていた。学校が、上から体育祭を管理統制するような方式ではなく、学校側は、競技の判定等の公正を保つために審判員の役割を担っていたにすぎない。

本件棒倒しは、合計四試合が予定・実施され、二六名の審判団が構成されたが、実際の競技に際しては、二六名全員が一度に審判員として各試合を審判注視することはなかった。

(二) 各種目の出場選手は、生徒会の体育祭実行委員会の決定に基づき、生徒は必ず最低一競技に参加することとされ、各クラスにおいて、競技毎、選手表に生徒自身によって記入され、選手表が作成された。

(三) 原告裕一は、当初作られた本件棒倒しの選手表には、含まれていなかった。

(四) 選手表提出後に出場選手を変更する場合、クラスの体育委員に届け、体育委員が生徒会に届けものとされていた。大濠高校では、生徒会の自主性を重んじており、出場選手を変更する場合、必ず本人が担任教諭に申し出て、担任の許可を得ることは義務付けられていなかったし、そのような指導もされていなかった。

(五) 本件棒倒しの予行演習については、次の点を除いて、概ね被告主張のとおりである。

(1) 入場門では、招集係の教師はいなかったし、出場選手の名前の読み上げもなかった。係員の生徒八名が四ブロック八列の生徒各三九名の整列と人数確認を行ったにすぎない。

(2) 攻撃と守備のし方の指導については、実際には、棒の持ち方の指導がなされたにすぎず、それ以外の守備陣の守備体制や安全確保の指導、また、攻撃の具体的方法等についての指導は全くなかった。但し、暴力行為をした場合は点数をやらないとの説明は行われた。

2  審判団・職員の配置について

(一) 審判の配置場所は、主審が中央本部席前に、その他の審判は棒倒しの後方に五、六人ずつ配置し、主として、棒の倒れる時期の判定にその注意を集中していた。攻撃陣の生徒同志或は攻撃陣と守備陣の生徒が激突する棒と棒の中間域には、主審のみ配していたにすぎない。つまり、生徒の安全を重点に置いた監視体制はとられていなかった。

(二) 体育祭当日、入場門付近で選手を招集したのは、係員の生徒八名と実行委員の生徒のみであり、招集係教師は入場門付近にいなかった。人数確認は、入場門に入り棒の後ろに整列した後のことである。

3  本件棒倒しの状況について

(一) 二年一九組の棒倒し競技の選手であった松岡博文は、体育祭開始後棒倒し競技開始直前、足の裏に怪我をして競技に参加することが不可能になった。体育祭では、競技場(校庭)を中央本部及び父兄席側と、入場門及び生徒応援スタンド側に二分し、境界にフェンスを張り、一般の生徒が教員のいる中央本部側に出入りできないようにしており、教員は生徒応援スタンド側にはいなかった。

松岡博文は、補欠の選手がいないので、応援席でクラスの体育委員に理由を説明し、原告裕一と交替することを届け出て、了承を得た。原告裕一は、入場門前の集合場所で生徒責任者(又は集合係)に選手交替を届け出て了承を得たが、近くには教員の姿は全くなかった。

(二) 原告裕一は、赤組の守備陣として本件棒倒しに参加したが、入場門で二列に並び、棒の前に整列した際に、審判の教師が攻撃の列と守備の列とを分けた。

攻撃陣の生徒は、センターライン寄りに横一列に相手チームと向かい合って並んだ。守備陣の生徒の多くは、棒の回りを幾重にも馬型の態勢になって取り囲んだが、原告裕一と他の数名の守備陣の生徒は、守りの先頭として、棒を背にして相手チームの攻撃陣と対面する態勢で立った。

赤組・黄組の両チームの攻守の態勢が右のように整った後、主審のピストルの合図で競技が開始した。黄組の攻撃陣が赤組の棒に殺到したが、その際、黄色の攻撃陣の先頭を走って来た生徒が飛び上がりざま、原告裕一の腹部を蹴り、その勢いで後ろの守備陣を踏み越えて棒に飛び掛かって行った。そのため、原告裕一は、その場に仰向けに転倒したが、競技は中断されず、競技終了までの間、赤組及び黄組の複数の生徒によって腹部を数回踏み付けられた。

4  本件事故後の状況について

(一) 原告裕一は、競技終了後、何とか立ち上がり、赤組の選手の後について、棒の後側に移動したが、激痛に耐えられず、その場に倒れ込んだ。原告裕一は、山下教諭に、腹を蹴られたことと激痛のあることを訴えたが、反対側の棒に移動するように言われた。そして、原告裕一が反対側の棒に移動した後に、亀井教諭が異常に気付き、本部テントの保健係まで運ばれ、その後柔道場に寝かされた。しかし、原告裕一は、昼休みまで柔道場に放置され、松本医師(PTA会長)が診察をし、その指示により安藤外科病院に搬送されたものである。

(二) 原告裕一は、大野教諭が病院(安藤外科医院)を訪ねた頃には、同教諭から本件事故の様子を聞かれても、満足な返事ができる状態ではなかったものであり、ただ、「犯人の顔を見たが、名前は知らない。」と答えている。原告裕一の受傷部位からしても、横からドーンと当たる筈はなく、また、原告裕一は、そのような話をしたことはない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1及び2の事実のうち、被告が、福岡市中央区〈番地略〉所在の大濠高校を設置経営する学校法人であること、原告裕一は、本件事故当時、大濠高校二年生に在学していたものであり、原告和男は原告裕一の父親、原告早苗は原告裕一の母親で、本件事故当時、いずれも原告裕一の親権者であったものであること、原告裕一が、昭和五九年九月一六日に大濠高校で行われた体育祭に参加し、本件棒倒しに赤組の一員として参加したことは、当事者間に争いがない。

二事実関係

前記一の争いがない事実に、〈書証番号略〉、検証の結果、証人大野和夫、同安藤三郎、同松岡博文、同松岡繁雄、同山下光昭、同亀井良雄の各証言、原告松木裕一本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すると、大濠高校における本件棒倒し実施の経緯、本件事故の状況等、本件の事実関係につき、以下の事実が認められる。証人大野和夫、同松岡博文、及び同山下光昭の各証言並びに原告松木裕一本人尋問の結果中、右認定に反する部分は信用することができない。

1  大濠高校では、昭和五九年度の体育祭の競技種目及びその実施方法は、生徒会の総務係が、生徒の希望を取って立案し、体育科職員でその妥当性を検討・修正した後、再び生徒会総務の話合を経て原案を作成し、これを職員会議にかけ承認を得て最終的に決定された。右種目のうちには、格闘競技として、一年生に綱引、二年生に棒倒し、三年生に騎馬戦が組み込まれた。棒倒し競技は、選手が二組に分かれて対戦し、各組の選手が自己の組の棒を支えて守る(守備)一方、相手方守備の選手の背中や肩に登り、相手方の棒の先端に取り付いて棒を倒すべく攻め(攻撃)、先に相手方の棒の先端を地面に付けて倒した方を勝ちとするものであるが、大濠高校の体育祭では毎年行われ、生徒間で人気も高かった競技である。大濠高校の昭和五九年度の第二学年は二〇組から成っており、本件棒倒しは、五組ずつ青、赤、黄、白の四ブロックに分かれ、各ブロック七八人、合計三一二人の選手が出場することになった。そして、本件棒倒しの職員(教師)責任者は、近藤達男・第二学年主任、審判団責任者は大野和夫・体育科主任の各教諭と決定され、このほか、教師の担当者として、南北それぞれに主審一名、主審補佐一名、副審一〇名(第二学年二〇クラスの担当教諭のうち、奇数クラスの担任一〇名が北側、偶数クラスの担任が南側)が付いて合計二六名の職員(なお、生徒責任者は三年六組の中原)で競技を運営することになった。

2  体育祭の各種目の出場選手は、六月のロングホームルームで、クラス担任教師の指導の下に、クラスの委員長及び体育委員が司会をして、生徒の希望又は推薦により決定された。そして、各クラスの選手表は、担任教諭の捺印を貰ったうえで、クラスの体育委員から生徒会に提出され、右選手表をもとに、生徒会が全校の選手表を作成し、これを職員会議に提出して承認を得ることとされていた。

本件棒倒しは、正規の選手を各クラス一五ないし一六名のほか、右正選手が当日出場できなくなった場合に備えて、補欠選手を各二名ずつ選出した。原告裕一は、二年一九組に在籍していて、同組の所属ブロックは赤組であり、一六人の正選手と二名の補欠選手が決定されたが、原告裕一自身は、正選手にも補欠選手にも選出されていなかった。

生徒が選手表提出後、出場選手を変更する場合の正式の手続は、特定の生徒が二種目以上兼ねて出場すること等を防ぐため、必ず本人が担任教諭に申し出、担任の許可を得て、クラスの体育委員が生徒会に届け出るものとされていた。また、大野教諭は、体育祭当日の職員朝礼の際、生徒主事の教諭を通して各担任教諭に対し、出場選手変更の場合は、必ず担任を通じて申し出ることを担任から生徒に伝えるよう改めて依頼をしていた。しかし、特に、体育祭当日のプログラム進行中に都合により選手の交替の必要が生じた場合には、運動場の本部側(教員・来賓及び父兄席)と入場門側(生徒席)とがフェンスで仕切られていて、自由に行き来できないようにされていたため、クラスの体育委員に届け出ることで済まされているのが実状であった。

3  生徒会は、体育科の教師の助言を受けながら、各競技の内容、規則、選手の位置等の説明書を作成し、九月の職員会議で承認を得ることとされていた。そして、生徒会は、各クラスの体育委員を集めて競技要領を説明し、体育委員が各クラスで選手に説明した。

本件棒倒しの昭和五九年度の実際の競技要領は、次のとおりである。

(一)  服装 半袖体操服(Tシャツ)、半パンツとする。

(二)  招集 各ブロック二列、計八列。各ブロック人数を正確に把握する。

(三)  進行 開始前に必ず両チームの人数を合わせておく。

ピストルの合図一回目で開始、二回目で終了する。終了後、元の位置に整列した後、結果を発表し、次の対戦へ進む。

(四)  対戦は、①黄対赤、②青対白、③三位決定戦、④決勝戦の順に計四回行われる(トーナメント方式)。

(五)  すべての対戦が終了するまで選手は所定の位置で待機する。退場は終了した時点で近いほうの退場門から行う。

(六)  得点 一位一〇〇点、二位六〇点、三位三〇点、四位二〇点とする。

(七)  殴る、蹴るなどの暴力行為をした者は即退場とし、所属ブロックより退場者一名につき一〇点の減点とする。

4  大濠高校では、昭和五九年九月一三日、その前日に出場選手を再確認した上で、体育祭の全日予行演習を実施し、本件棒倒しの予行演習を次のとおり行った。

(一)  招集係の生徒が、同係の教師の立ち会いの下、出場選手の名簿を読み上げて、四ブロック各七八名の人数確認と整列をさせた。他方、大野教諭が、本部式台に審判の教師全員を集めて、出席を取り整列させた。そして、大野教諭は、出場前に、右各審判の教師に対し、殴る、蹴るなど暴力行為をした生徒は、すぐ引っ張り出して欲しい旨伝えた。なお、大濠高校では、実際に、競技中に生徒の暴力行為を発見して生徒同士を引き離したこともあった。大野教諭は、各審判教諭が審判を行う位置やその役割分担等については、特に指示をしなかった。

(二)  進行係の生徒が、運動場の北側に白、赤、南側に青、黄の選手を引率して定位置につけた。

(三)  南北各主審の教諭が中心となり、一ブロック七八名の選手を守備半数、攻撃半数に分けた。その分け方には、学年全体として、格別の規則はなく、各チームが二列に整列(なお、各列の生徒の順番も任意である。)しているので、その一方の列を攻撃、他方を守備とするなど適宜の方法で行った。赤組に関しては、審判の教師の指導の下、柔道部員等身体の大きい選手を中心に約二〇名の者が棒を支えることだけを決め、本番の競技におけるその他の攻撃及び守備の選手についてまでは、特に決めていなかった。

(四)  総務責任者(生徒)が、本マイクを通し、選手及び全校生徒に向けて、競技上の注意と罰則を説明し、審判団責任者大野教諭、更には現場で南北各主審がこれを補足した。

(五)  その後、大野教諭が開始のピストルで、攻撃の練習として、攻撃の選手を中央ラインまで走らせて止め、選手を元の位置に戻して整列させた。

(六)  再度、大野教諭と各主審によりルールの注意をするなどした後、選手を退場させた。

大野教諭は、右競技上の注意等についての指導として、ルールの説明のほか、特に、殴る、蹴る等の暴力行為をしてはならない旨厳しく注意し、暴力行為があった場合の罰則(当該選手の退場とチームの減点の措置)を告げ、各主審の教諭らは、それぞれの棒につき、棒の支持のし方を教えた。しかし、右教諭らは、それ以上に、本件棒倒しにおける棒の支持以外の守備のし方や攻撃の方法に関する具体的な指導は行わなかった。

5  原告裕一が在籍した二年一九組の担任は、松岡繁雄教諭であったが、同教諭は、体育祭の当日の教室朝礼で、クラスの選手の体調と出場選手の変更の有無を確認した。その際、松岡教諭は、競技開始後の選手交替の場合の手続についての指示はしなかった。原告裕一は、本来、競技自体には全く参加せず、バックボード関係の委員の活動を行う予定だった。ところが、原告裕一は、同じクラスの友人松岡博文から、本件棒倒しの本番の直前になって、足の裏を怪我したので、代わりに競技に出場して欲しい旨の依頼を受けたため、これを承諾して、急遽本件棒倒しに赤組の選手として出場することとなった。右交替の件については、右松岡博文がクラスの体育委員に、原告が入場門の招集係の生徒責任者にそれぞれ告げたが、教師に対しては届け出られていなかった。

6  本件棒倒しは、午前の部に予定された八種目のうちの六番目であり、予定通り実施された。まず、入場前には、入場門の所で、招集係の生徒が、各色二列ずつ整列した各組の選手の人数(各七五人ずつ)確認を行った。そして、入場門から、赤組と白組か北側へ、黄組と青組が南側に分かれて入場し、それぞれの北及び南の各棒の後ろに整列した。そこで、赤組では、審判の教師が、二列(各列の並び方は自由)のうち、前列を攻撃陣に、後列を守備陣にする旨決定した(なお、棒を支持する約二〇名の選手は前記予行演習の際に決めていたとおりである。)。また、審判の教師は、選手に対し、暴力行為を行うと点数はない旨注意した。

第一回戦は、黄組対赤組の対戦であった。赤組では、守備陣約四〇名のうち、棒を支える約二〇名の者は、上体を前に倒し、棒にしがみついたり、更に外側で前の者の腰部付近にしがみついたりして、身体同士を接着させて、幾重かに棒の回りを取り囲んだが、その余の守備の選手については、同組の中の選手の提案で、棒の回りの守備陣の前方に、棒を背にして相手方チームと対峙するような形で立ち、相手方の攻撃陣を迎え撃つ形で防御する(以下「迎撃陣」ともいう。)ことになり、原告裕一はその一人として立った。右迎撃陣が立った位置は、棒の回りを囲む者のすぐ前方であり、その間の距離はほとんど離れていなかった。また、赤組の攻撃陣は、棒を中心とする一直線上に並んで開始を待った。なお、赤組と黄組の棒の間隔は、五〇ないし六〇メートルであった。

7  そして、大野教諭のピストルの合図で、第一回戦は開始した。赤組が守っている北側では、本部の前で予行演習のときと同様点呼を受けた上で入場して来た審判の教師約一〇名(主審・補佐を含む)が、最初、南側から黄組の攻撃陣が攻めて来るのに邪魔にならないよう、赤組守備陣の後方数メートル(二回戦に備え座って待機している白組の選手の前方)の位置に立った。右位置は、攻撃陣が相互に行き交う様子が見通せる場所であり、審判の教師は、まず主として、攻撃陣の選手が出会うところを、暴力行為が行われていないか否かにつき注意して見ていた。大野教諭は、本部前の朝礼台の前で、競技を見守っていた。なお、審判の教師は、一般に、選手が勝負と違う形で粗暴な行為をすれば、これを暴力行為として摘発していたのに対し、攻撃陣の選手が、迎撃陣の選手を突破して前進するため、迎撃陣の選手の身体に接触してこれを超えて攻めて行く行為については、暴力行為とは評価せず、また、攻撃陣の選手にとっては、攻撃陣が攻めて来るのは見えていることであるし、それまでに出合い頭の事故もなかったので、格別右突破行為が危険であるという認識は有していなかった。

原告裕一は、前記状態で立っていたところ、黄組の攻撃陣が横一列になって一斉に、赤組の棒を目掛けて走って攻めて来た。原告裕一は、これを迎えるべく、身体をかがめて少し体勢を低くし、こぶしを握って肘を曲げ、身体にぐっと力を入れて身構えた。しかし、原告裕一は、暴力行為を禁止する注意がなされていることから、相手方攻撃陣が走って来て身体が当たることはあっても、勢いは止める筈で、激しくぶつかることはないものと考えていた。これに対し、走って来た黄組の攻撃陣のうちの一人の選手が、原告裕一の左側腹部(心臓の下方約一五センチメートルないし二〇センチメートルの箇所)に片足を懸けて、原告裕一の向う側に飛び越えて、後方の赤組の棒を固めている守備陣の上にとび乗って行った。これは、原告裕一の予測を超え、咄嗟の出来事であったので、原告裕一は、自己の身体を守るべく防戦する動作ができなかった。原告裕一は、左腹部をちょうど蹴り降ろされたような状態となり、その場に仰向けに倒れ、衝撃が大きかったため起き上がれない状態に陥った。原告裕一が倒れた場所は、ちょうど黄組の攻撃陣と赤組の守備陣とが入り乱れている所であり、原告裕一は、右手で蹴られた左脇腹の方を押え、左手で顔のあたりを覆って防いだものの、身体のそれ以外の部分(腹部も含む)を何回も、攻撃・守備双方の選手によって踏まれることになった(本件事故)。その間、原告裕一が倒れたままでいることに気付いた者はなく、誰からも助け起こされることもないまま、競技は続行され、赤組の棒が先に倒れて、黄組が勝つことにより、競技は終了した。右競技時間は、一分にも満たないものであった。そして、引き続き第二回戦、三位決定戦、決勝戦とも予定通り行われ、午前一〇時三七分ころ競技は終了した。

8  なお、通常、大濠高校の棒倒しの競技中には、最初相互に相手方の陣地に向かって走る攻撃陣の選手同士が出合い頭に、また攻撃の選手と迎撃陣の選手が攻防の際にそれぞれ勢いで衝突し、その際に転倒すること、攻撃の選手が守備陣の選手の背又は肩等を利用して棒に飛び付くため、その上がり際に攻撃陣の選手の足や膝が守備陣の選手の身体に当たったりすること、棒を巡る守備陣と攻撃陣の集団の中で攻撃又は守備の選手が倒れ込み、通常はすぐ起き上がるが、競技中の選手に踏まれながらしばらくの間倒れていたり、或は競技が終了しても倒れたままの状態であったりすること、その結果擦傷程度の怪我をしたり、競技終了後足を引きずっていたりすることなどは、頻繁に起こり、そのような選手は一試合につき何人も出て来るものであり、本件棒倒しの第一回戦でも、同様のことが生起していた。なお、大濠高校では、本件事故以前に、棒倒しにおいて、骨折や内臓損傷等を伴うような重大な結果が発生したことは一度もなかった。そして、競技中の選手や審判の教師は、前記のような選手の転倒や軽い負傷等については、棒倒し競技において当たり前のことという意識を持っており、重大なこととは考えていなかったので、そのために一々競技を中断したり、転倒した選手を救助したりすることはなかった。また、審判の教師は、生徒に対し、事前に、転倒するなどして怪我をしないための注意をしたり、転倒等した選手に配慮するようには指導していなかった。

他方、前記北側の審判の教師は、赤組の攻撃陣が黄組の陣地の方へ走って行き、赤組陣地内でも攻防が始まると、全体的にもう少し棒に近付き、攻撃陣が競技開始時に並んでいた直線上付近まで前進して、適宜散らばり、右直線上から後方にかけての半円形状において、攻撃及び守備陣を取り囲むような形で立ち、競技を見守っていた。そして、審判の教師は、引き続き暴力行為の有無を監視するとともに、赤組の棒が倒れる様子及びその時期に注目していた。なお、棒が倒れたか否かの最終的な判定は、主審が下し、その余の審判の教師は、同じ立場で競技を監視していた。しかし、右教師らは、棒の前方(内側)までは回り込んで来てはおらず、内側の攻撃及び守備陣の集団の中で倒れ込む選手がいても、これを確認できる位置に教師らは立っていなかった。

9  原告裕一は、第一回戦終了後、ようやく立ち上がり、整列のため、赤組の棒の後方まで歩いて行き、そこで左側腹部を押えてしゃがみ込み、北側主審補佐の山下光昭教諭に対し、腹部を蹴られて痛い旨告げたが、同教諭から、三位決定戦に向けて反対側(南側)の棒の所まで移動するように指示され、これに従った。そして、原告裕一は、移動し終わり南側の棒の後方に整列するときに、今度は、南側審判の亀井良雄教諭に対し、腹部を押えながら、腹部が痛い旨告げ、同教諭に脇を抱えられるように支えられて、本部のテントの救護班の柴田笑子養護教諭のところへ連れて行かれた。更に、原告裕一は、右柴田教諭により当日の救護所となっていた柔道場に連れて行かれた。同所では、来賓として来校していた松本医師(PTA会長で小児科医師)が原告裕一を診察し、同医師の指示により原告裕一は、救急車で安藤外科病院に搬送された。

10  原告裕一は、体育祭当日午前一一時四六分頃、安藤外科病院に着き、医師の診察を受け、体育祭で腹部左側を蹴られた旨申し立てたが、右初診時には、腹部左側に圧痛がある程度で、筋肉防御もあるかないか分からない状況で、ひどい症状ではなかった。そこで、原告裕一は、様子を見るために同病院に入院(いわゆる観察入院)をした。ところが、その後、原告裕一の症状は次第に悪化し、同日午後一〇時頃には、腹膜刺激症状が激しくなるとともに、腹部が腫れて来るなどしたため、同病院の安藤三郎院長は、午後一〇時三〇分に手術決定をし、翌日(九月一七日)の午前一時頃から原告裕一に対し開腹手術を施行した。

安藤院長は、右手術により、原告裕一の所見として、後腹膜左半分全体に血液が充満し、血腫があること、脾臓の脾門部三箇所に裂創があって、その部分より出血していること、更に脾臓、胃小弯にも血腫があるのを見て、脾臓破裂、腎破裂による後腹膜血腫(広範囲)と診断し、脾臓摘出術を行った。そして、安藤院長は、右原告裕一の所見と同原告の前記申し立てから、右負傷の原因は、同原告が人から蹴られて倒れた後、複数の者に上から踏まれたことによって起こったものと判断した。

以上によれば、原告裕一の右傷害は、前記7認定のとおり、本件体育祭の棒倒し競技の際に、攻撃陣の選手の一人が走ってきて迎撃陣の同原告を乗り越えて守備陣の上にとび上ろうとした際に足か膝が同原告の腹部に当って同原告が転倒した上数名の者から腹部等を踏みつけられたことによって生じたものと認められる。

11  大濠高校では、本件事故後、体育科において、他の高校の事例も聞いた上で、棒倒し競技の存続問題も含めて今後の体育祭の方針を検討した結果、やはり次年度以降も右競技の実施を続けることになったが、その実施に際しては、事故が起きないように注意して行うことを申し合わせた。そして、大濠高校の教師らは、棒倒し競技についての生徒に対する事前指導の面では、棒の持ち方や守備のし方等競技の方法に関しても、細かい注意を与えるようになり、また、審判の方法の面では、大野教諭は、審判の教師に対し、各棒につき一〇数名の教師に一番見易い所で注意してルールに従って監視することを要望した。その結果、守備陣の中で、相手方の攻撃陣を迎撃して防御する者はいなくなり、守備は専ら棒を支える方法により行われるようになった。また、審判の教師は、競技の最初から、攻撃の邪魔にならない限り、棒の内側にも配置され、ほぼ円形状に棒を取り囲むような形で競技を監視するようになった。

なお、大野教諭が、他校における棒倒しの実施状況を調べた結果、福岡県内では、修猷館高校、福岡高校、筑紫丘高校、小倉高校、戸畑高校等の高校で実施していること、そのうち、審判のやり方に関しては、修猷館高校では、生徒だけによる審判を行い、また、福岡高校、筑紫丘高校でも、教師の審判も出るが、生徒の自主性に任せていることが判明した。

三本件棒倒しにおける大濠高校の教師の生徒に対する安全保持義務ないし注意義務の内容及び右義務の履行の有無について

1 被告は、大濠高校を設置経営する学校法人であり、原告裕一は、大濠高校に入学し、本件事故当時も同校第二学年に在学していたものであるから、原告裕一(その親権者であった原告和男、原告早苗)と被告との間には、いわゆる在学契約関係が存したことになり、被告は、右在学契約から生じる付随義務として、生徒の教育過程での安全を保持する義務(安全配慮義務)を負うものというべきである。そして、本件棒倒し競技は、高等学校の教育過程のうち、特別活動の中の学校行事の一つとして行われる体育祭(学校教育法施行規則五七条、五七条の二及び高等学校学習指導要領参照)の一競技種目として行われたものであり、正課授業と同様に学校教育活動の一環として行われていたことは明らかであるから、その実施については、担当教師らに、前記安全保持義務、ないし生徒を指導監督して、事故の発生を未然に防止し、生徒の安全を確保すべき一般的注意義務が存することは当然である。

ところで、本件棒倒しにおいて、大濠高校の教師が生徒に対して負う具体的な安全保持義務ないし注意義務の内容は、本件における具体的客観的事情、即ち当該行事の性質・危険性、生徒の年齢・判断能力、事故発生の蓋然性や予測可能性、結果回避の可能性等を考慮して、その客観的状況下で定まるものと解するのが相当である。そこで、以下、前記二の認定事実をもとにして、本件における具体的客観的状況下での安全保持義務ないし注意義務の内容とその履行の有無を検討することにする。

2 事前指導(指示・注意)について

前記二の事実によれば、まず、本件棒倒しに関する事前指導としては、予行演習のときに、大野教諭がルールの説明をし、特に、殴る、蹴る等の暴力行為をしてはならない旨厳しく注意して、暴力行為に対する罰則を告げ、各主審の教諭らは、それぞれの棒の支持のし方を教えたが、右教諭らは、それ以上に、守備・攻撃の方法に関しては、具体的な指導は行っていなかったこと(なお、赤組では、守備陣のうち棒を支持する者以外の、守備及び攻撃の選手の選別は全くの任意であった。)、体育祭当日も、審判の教師が、暴力行為を行うと点数はない旨再度注意をなしたのみであったこと、また、審判の教師は、生徒に対し、転倒するなどして怪我をしないための注意をしたり、転倒等した選手に配慮するようには指導していなかったこと、赤組では、選手の提案により、相手方チームと対峙するような形で立ち、相手方の攻撃陣を迎え撃つ形で防御する迎撃陣を設けることになり、原告裕一もその一人として立っていたところ、本件事故に遭遇したことが認められる。

しかしながら、更に、前記二の事実によれば、棒倒し競技は、いわゆる格闘競技であって、大濠高校では、迎撃陣を設けた場合における攻撃陣との攻防の際の勢いによる接触・衝突(原告裕一の場合)だけではなく、最初の両攻撃陣の出合い頭の衝突、攻撃陣が棒を倒すべく守備陣の身体を利用して登って行く際の接触、棒を巡って交錯している攻撃陣と守備陣の集団の中での転倒等、及びこれらによる擦傷等の軽い負傷が一試合毎に頻繁に生じていたことが認められ、右事実によると、棒倒しにおいて、選手同士の衝突、接触とこれらによる転倒、更には擦傷等の軽傷は、本質的・必然的なものであって、その程度における危険性は常に内在しているというべきである。そして、原告裕一を含め、本件棒倒しに参加している選手は、高校二年生の男子生徒であって、相当の判断能力、行動能力及び体力を有しているのであるから、仮に赤組の選手の判断で迎撃陣を設けて攻撃陣を迎え撃つ場合でも迎撃の生徒自身で、攻めて来る相手方の動きを予測して、勢いの強い攻撃選手の突進に対しては、身構えて押し返したり、防禦の態勢をとる等の方法をもって、臨機応変に自己の身体の安全を守ることを一般的に期待することが可能であるとみられる。また、迎撃による防御の方法自体が特に危険であるとはいえないこと、大濠高校では、本件事故以前には、競技中の衝突・接触等により転倒者が出ても、競技者の人数の程度からみてすぐ起き上がるのが通常であり、仮にしばらく又は競技終了後まで倒れていても、せいぜい擦傷等の軽傷を負う選手がいたのにとどまり、骨折や内臓損傷等を伴うような重大な結果が発生したことは全くなかったのに対し、本件事故は、迎撃陣の選手が攻撃陣の選手の攻撃に合って、ちょうど攻撃・守備の選手が交錯する場所に転倒し、最初の攻撃の衝撃が強かったため起き上がれずにいるところを多数回にわたり踏まれたという、通常予測できる範囲を超えて惹起した稀な形態の事故であったこと等の客観的事情を考慮すると、生徒間の事故発生を防止し、生徒の安全を確保するために担当教師がなすべき事前指導の義務の具体的内容としては、棒倒し実施に先立ち、生徒に対し、攻撃・守備の際の必然的な身体の接触以外の、故意による殴る、蹴る等の暴力行為(勝負と違う形での粗暴な行為)を禁止する旨繰り返し厳しく注意することにより、生徒間事故を防止することでもって足りるものと解するのが相当である。従って、大濠高校の担当教師は、一応本件棒倒しにおける事前指導の注意義務は尽くしていたものと認められ、この面における右教師らの措置に、安全保持義務違反ないし過失はないものというべきである。

3 監督・監視について

前記二の事実によれば、本件棒倒しの監督・監視の面においては、予行演習のときに、大野教諭は、各審判の教師に対し、暴力行為をした生徒は、すぐ引っ張り出して欲しい旨伝えたが、それ以外に、右教師らが審判を行う位置やその役割分担等については、特に指示をしていなかったこと、体育祭当日の本件棒倒しにおける赤組守備側(北側)において実際になされた審判の方法は、点呼を受けた約一〇名の審判の教師が、最初は、攻撃の邪魔にならないよう、赤組守備陣の後方数メートルの位置に立ち、主として、攻撃陣の選手が行き交う際に、暴力行為が行われないか否かにつき注意して監視していたこと、審判の教師らは、赤組陣地内でも攻防が始まると、全体的に少し棒に近付き、最初赤組攻撃陣が並んでいた直線上付近から後ろへ適宜散らばって、半円形を描くような形で棒を取り囲んで立ち、引き続き暴力行為の有無の監視とともに、赤組の棒が倒れる状況に注目して監督していたこと、しかし、右教師らは、更に棒の前方(内側)にまでは回り込んで監視することまではしていなかったことが認められる。

しかしながら、更に、前記二の事実によれば、大濠高校の棒倒しの競技中には、攻撃陣の選手同士、或は攻撃陣と迎撃陣の選手が出合い頭に勢いで衝突することにより転倒したり、攻撃陣と守備陣が交錯する集団の中で選手が倒れ込み、競技中の選手に踏まれながらしばらく倒れていたり、競技が終わっても倒れたままの状態であったりして、擦傷等の軽傷を負うこともしばしば起こっていたこと、大濠高校では、本件事故以前には、競技中の転倒等により、せいぜい擦傷程度の軽傷を負う事例はあっても、骨折や内臓破裂を伴うような重大な事故に至った例はなかったこと、なお、本件棒倒しの第一回戦においても、競技が開始し、黄組の攻撃陣が攻めて来て、赤組の迎撃陣に遭遇してから、赤組の棒が倒れて勝負がつくまでの時間は、わずか一分間にも満たないものであって、いわば一瞬のうちに競技は終了してしまうものであることが認められる。右諸事情に鑑みれば、大濠高校の選手も審判の教師も、このような転倒や軽傷は棒倒しにおいて当たり前のことで、あまり重大視しておらず、そのため、転倒者が出ても、一々競技を中断したり、転倒した選手を救助に行ったりしていなかったことも尤もなことと認められる。そして、原告裕一の被った本件傷害は、前記のとおり、迎撃陣の原告裕一が攻撃陣の選手の足が当って、ちょうど攻撃陣と守備陣が交錯している集団の中に転倒した上、右攻撃の選手の一撃の衝撃が強かったため立ち上がれずにいるところを、複数人に身体の腰部、腹部を踏まれるという不運が重なって出現したことに起因するもので、大濠高校におけるこれまでの棒倒し実施の歴史の中では、通常の予測範囲を超えるものであったといえる。また、仮に審判の教師が原告裕一が転倒したことを発見していたとしても、同原告が通常の衝突等による転倒とは異なった強い衝撃を受けており、転倒したところを踏まれることにより重大な事態が起きつつあることを、外部から見て判別することは非常に困難であったと考えられ、棒倒し競技の棒を巡る攻撃・守備陣の集団の中での攻防という競技の性質及びその競技時間に鑑みれば、外観上、普通の場合と変わらない転倒者を発見したからといって、本件のような重大な結果を予見して直ちに競技を中断したり、救助に駆け付けたりすることを期待することは、実際上不可能であったといわざるを得ない。

そうすると、監督・監視の面においても、本件棒倒しを巡る客観的具体的状況下では、生徒の安全確保のために担当教師が負う義務の内容としては、勝負と違った形の故意による暴力行為の有無に注目し、これを明確に見分けることができる位置において、生徒の動静を監督・監視すれば足り、それ以上に、すべての転倒者を発見し、棒を巡る集団から逐一救出すべき義務まで負っていたものと認めるのは相当ではない。従って、本件棒倒しにおいて、赤組の守備側(北側)の審判の教諭が約一〇名で、競技開始時は、棒から離れた後方で、また、棒を巡る攻防開始後は、棒の後方(外側)半分を取り囲む形態で、いずれも暴力行為の有無に注目して、競技を見守っていたことで、一応、右安全保持義務ないし注意義務は尽くされていたものと認めるのが相当である。そして、前記二の事実によれば、本件事故による反省から、その翌年以後における大濠高校の棒倒し実施の際には、審判の教師が、競技の最初から棒の内側にも配置され、ほぼ円形状に棒を取り囲む形で競技を監視するようになったことが認められるが、右のような審判の教師の配置は、生徒の安全確保の観点から、一般的にはより望ましいこととはいえるものの、仮に、本件棒倒しの際において、右のような監視体制を取っていたとしても、果して本件事故及び本件傷害を回避することができたか疑問であることは、前記検討過程で判示したとおりである。

以上のとおり、大濠高校の担当教師には、本件棒倒しの監督・監視の面においても、安全保持義務違反ないし過失があったものと認めることはできない。

4 計画策定について

高等学校学習指導要領によれば、特別活動の指導計画の作成に当たっては、生徒の発達段階や特性を考慮し、教師の適切な指導の下に、生徒自身による実践的な活動を助長すること、また、学校行事においては、個々の行事の特質に応じ、生徒の自発的な活動を助長することとされているところ、前記二の事実によれば、大濠高校では、昭和五九年度の体育祭の各種目の出場選手及び各競技の内容、規則等の各決定過程は、いずれも、教師の助言・指導を受けながら、各生徒ないし生徒会が自主的に参加して計画した上で、最終的な決済は職員会議における承認によってなされる仕組みになっていたことが認められ、右事実によると、大濠高校では、生徒の自主性を尊重しつつ、教師が適宜の指導監督を行いながら体育祭を運営していたものといえ、体育祭の計画策定の方法自体は、前記学習指導要領の指針にも適い、相当であったものと認めることができる。そして、本件棒倒しに関し実際に定められた競技要領(前記二の3)も、生徒が棒倒し競技において規律ある行動をするよう服装、招集、進行、退場等の方法につき規定するとともに、減点の制裁を課しつつ暴力行為を禁止することを明確に掲げたものであって、本件棒倒しの計画内容についても、高校生の体育祭競技の要領として妥当なものであったと認めることができる。

なお、右競技要領に、棒倒しにおける攻撃・守備の具体的な方法まで規定されていなかった点については、前記2の事前指導の項で検討したのと同様の理由により、生徒の安全確保の観点からみて、不十分であったということはできない。また、大濠高校では、選手の交替方法に関しては、体育祭当日までは、担任教諭に対する届け出の手続きが履行されていたものの、特に当日の競技進行中に交替の必要が生じた場合には、体育委員に対する届け出で済まされ、実際に担任教諭まで届け出ることはなされていなかったことが認められる。しかし、選手交替のため担任教諭の承認を得ることになっていた趣旨は、特定の生徒が二種目以上兼ねて出場することを防止することにあった上、一般に高校生ともなれば、自己が特定の競技に参加することにつき、体力的・技術的に耐え得るものであるか否かに関しては、自己の責任において決定をなし得る判断能力を十分有しているものというべきであるから、本件棒倒しにおいて、特に選手交替の手続の点で、担当教師に落ち度があったということはできない。

従って、本件棒倒しの計画策定の面においても、大濠高校の担当教師に安全保持義務違反ないし注意義務違反の事実を認めることはできない。

5 本件事故後の措置について

前記二の事実によれば、本件棒倒しの第一回戦が終わり、三位決定戦のために南側に一応移動した後、原告裕一から、腹部が痛む旨の訴えを受けた南側審判の亀井教諭は、原告裕一を支えて養護教諭の所へ連れて行き、更に右養護教諭が当日の救護所であった柔道場に原告裕一を連れて行って、同所で来賓として体育祭に出席していた松本医師の診察を受けさせた上で、安藤外科医院に搬送したこと、なお、本件棒倒し全体の競技終了時刻は午前一〇時三七分頃であり、原告裕一が同医院に到着したのが午前一一時四六分頃であり、その間に一時間余りの時間が経過しているが、当時の原告裕一の症状は緊急を要する深刻な状態ではなく、安藤病院到着後の診断によっても、当初はいわゆる観察入院を指示されていたところ、同日夜になって症状が悪化し、午後一〇時三〇分に至って手術の決定がなされたものであることが認められるから、大濠高校の関係教師らは、その段階における原告の症状に即した相応の措置を講じていたものということができ、本件事故後の措置に関しても、担当教師に注意義務違反があったと認めることはできない。

6  まとめ

以上検討した結果、本件棒倒しにおいて、原告裕一が本件事故に遭遇し、本件傷害を被ったことにつき、大濠高校の担当教師に同原告に対する安全保持義務違反ないし注意義務違反が存したものと認めることはできず、同教師らに債務不履行ないし過失があったと認めることはできないものといわなければならない。

四結論

以上の次第で、大濠高校の担当教師に安全保持義務違反ないし過失の存在を前提とする原告らの請求は、その余の点につき判断するまでもなく、理由がないから、いずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官綱脇和久 裁判官杉山正士 裁判官徳岡由美子)

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